エヌ氏の一日を読んで

こんな事を思いました

道具は人間の感情を決定する時があるが、人間の感情を道具が再現できない場合もある。


道具が表現出来る事には限りがある。
これはWebサービスに限らず全ての道具で言える。
道具とは言語だったり、ティッシュだったり、金槌だったりするわけだ。
コンピュータが人の感情を表現できないのではなく、人間が道具を使って表現する限り、思ってる事は伝えにくくなってしまう。


たとえば言語なんかは、日本語にあって英語圏にない概念があるし、また逆もある。
ないものを表現するというのはとても大変な事だ。
文章は冗長化するし、必要に応じて図が必要になる。しかもそれで相手に思う事が伝わったかというと、必ずしもそうとは言えない。


では0か1で決まるいいね!ボタンの類は、感情を単純化し確実に相手に伝える事の出来るものなのか?
あるいは劣化した感情をネットに流す事になるのか?
Noだとぼくは思っている。
いいね!ボタンが押されたというのはどういう意味なのか、というのはその人の文化圏、記事の内容、押された人の状況などなどによって意味が変わる。
例えばTwitterの似たような機能であるお気に入りは、ぼくは同一機能として扱っているけども、人や状況によっては意味が違ったりする。
昔あったぶらふぁぼ(お気に入りした == dis)なんかが代表的だ。
dis目的でお気に入りに追加する、という考え方はぶらふぁぼを知るまでぼくにはなかった事だ。


確かにシステム上は押したかどうかを見る機能でしかない。
しかしそのいいね!がどういう意味なのかを推論するのは人間であり、押された人の何かに依存する事を忘れてはいけないと思う。


なんか乱文だけどそんなことを思いました。まる。